爽やかな秋に天目山を登る  
 
天目山は、浙江省臨安市にあり、東山系と西山系から成り立っている。東山系は、東天
目山といい、一番高いところの大仙岳の海抜は1478メートルである。西山系は西天目山と呼び、頂上の仙人岳の海抜は1506メートルである。東と西の頂上に、それぞれ一つの池があり、「天池」とよばれて、左右に相対して、あたかも大きな目をして、碧空を仰ぎ見るようなので、此れを以って、天目山と命名された。


山歩きで見る老木
 
天目山は大変古い山系で、悠久の歴史を持ち、奇峰が聳え、幽玄の谷、清澄の泉から
成る山であり、山系は幾重にも重なり美しく、樹木は深く生い茂り、まさに、「天然植物公園」、「森林公園」、「大樹の王国」などの美称が与えられる。特に、豊富な植物の群生地として有名であり、江南地区の独特な森林風景やたさまざまな植物からできている緑の世界……ここは、世界的に見ても、大変珍しい「植物学上の宝庫」と言われている。
西天目山の植物は、「古い」、「高い」、「大きい」、「稀」、「多い」、「美しい」と絶賛され、多くの古生代からの生きた化石と言われる植物が生存している。例えば、野生の銀杏、香果樹、領春樹、連香樹、銀雀树などがある。『中国植物誌』によると、銀杏は中生代の生きた化石と言われる稀少な樹木種であり、中国特有の植物として、浙江西天目山にしか、野生状態での銀杏は生育しておらず、まさに「生きた化石」そのものである。
開山老殿の前に直径7.8メートルの銀杏がある。「銀杏の元祖」と呼ばれている。ひとつの主幹から30個余の枝がのびていて、まるで家族団らんのようで、「五代同堂白果樹」
(5世代が同居するギンナンの樹)と名づけられている。その近くに、、天目山第15号と記号化されたイヌカラマツがあり、直径はわずか1.07メートルしかないのに、高さは56メートルもあるのである。現在世界で最も高いこのイヌカラマツは、20階建ての建物に相当し、「天を穿つ樹」と呼ばれている。西天目山は、「天蓋を持った大樹」との呼び名で、名高い。そこには、世界で最も大きい柳杉の群落があり、最大のものは、直径が2.75メートルあり、木の体積は75.42立方メートルである。
山道をまっすぐ進み、、遊歩道の坂道を50メートル行った所に、数百年もの歴史を持
つ二株の銀杏がある。互いの主幹が一体になり、まるで夫婦が抱き合っているようで、「おしどりの夫婦樹」と呼ばれている。若い恋人たちだけではなく、樹の下で記念写真を取ったりするお年よりの夫婦も大勢いる。
天目山の幽玄で稀に見る美しい景色、すばらしく特異な自然環境は、人々を惹きつけて
止まず、秋に行われる「中国天目山登山フェスティバル」では、江蘇や上海、浙江から
数百人のお年寄りの参加者がいた。そのうち、結婚50周年を迎えたお年寄り夫婦は5
カップあり、赤い結婚記念の服を着て、まさに、人生の道を歩いてきたように、お互い
に支え合いながら登って行った。天目山管理局のスタッフの話によると、2ヶ月も続い
ていたこの登山フェスティバルの期間、登山の楽しみを増すために、登山ルートを指定
し、お年寄り組、中年組、青年組に分けてそれぞれ登山試合を行い、週別、月別と総合
成績別の優勝者に賞を与えた」。

禅寺への古道と清心の参拝

日本の出版社[平凡社]が出版した『世界百科辞典』によると、「天目というのは、黒および柿色の鉄釉薬を用いた陶磁茶碗の総称である。鎌倉時代建久三年(1192)から元弘三年(1333)の141年間、当時中国宋時代の禅僧が日本にもたらし、初めて、日本に伝わった。この種の茶碗は、もともと、当時天目山寺院で日常的に使われていたために、「天目」と呼ばれるようになった???」この種の「天目碗」と呼ばれる茶具は、天目山の寺院が、賓客を持て成す時に使うものであり、宋時代の黒釉磁の中の逸品であり、独創性のある作陶手法を用いている。茶碗の内側には自然の木の葉を貼り付けて釉がけをしており、しかも、葉脈まではっきりと判別できて、木の葉は、剥げ落ちることはない。光の屈折を利用すると、落葉が水中に浮かんで見え、最もありふれた自然の美しさを通して、美の趣を心憎いまでに表現しており、焼成工芸の中で、絶後の技法といえよう。しかし、現在、
本土にはこの種の古い茶碗はもう残っておらず、日本でも、わずか3点が残されている
過ぎず、国宝として博物館に収蔵されているのみである。
天目山は、古くから、宗教上の名山である。西漢の時代には、道教の信者がここで修練をし、東漢時代の『大蔵洞渊集』では、天目山を「三十四洞天」(洞は、道教信者の修練する場所を指す)をなすといっていた。仏教が、晋代からはじまったことに伴ない、その後、当山は、臨済宗本派の中興の地となり、書駄菩薩の法事を行う場所となった。      天目山では、宋、元、明、清の各時代、インドおよび東南アジア各国との仏教の交流が盛んに行われ、日本の臨済宗永源寺派の発祥の地となり、日本の僧人は今に至るまで天目山を「本山」といっている。清康熙四年(1665年)に建設された禅清寺は、現在も観光客の参拝地である。宋の時代には、有名な僧が輩出して、臨済宗は隆盛を極め、海内外にも広く知らされるようになった。宋末から元初にかけての歴史資料によると、天目山に80
回以上も、日本人僧が来たことが記載されており、みんなは天目山を臨済宗の発祥として認識していた。1926年、日本僧の元光寂室日本人僧が、天目山を臨済宗の発祥の地として見做していたことがわかる。1326年、日本人僧の元光寂室氏が、天目山に参禅し、帰国後、1361年、天目山禅院の規律を模して、永源寺を創建し、永源寺派という仏教の流派をを興し、天目山を「本山」と見做した。日本の鎌倉時代には、天目山に仏法を学びに行く僧は少なくはなかった。これらの日本人僧は、天目山から、天目碗(又の名を、木の葉天目)、銀杏の種、柳杉の苗などを日本に持ち帰った。入ると、天目山に仏教の真理を習いにくる僧も書く少なくはなかった。これらの日本の僧人は、天目山の古盏器から、銀杏の種、柳杉の苗までいろいろ日本に持っていった。
現在富士山にある柳杉は、当時、天目山から移植したものである。
現在でも、天目山の本山を尋ね、参拝する日本の仏教専門家や信者はあとを絶たない。そのほかにも、インドや北朝鮮の僧や朝鮮などの国から、盛名を慕い、天目山にやって来る。曾って、元延佑六年(1319年)9月に、高麗(朝鮮)の沈王王璋(高麗驸马大尉)は、天目山に詣で、禅宗に帰依した。また、高麗の白尚書などもここに足を運んだことがある。現在、天目山には、中峰禅師が沈王に道を説いたという「真際亭」の遺跡がある。高峰が著わした『高峰語録』と中峰が著わした『西窓夜話』という二冊の本は、韓国の僧が今尚、読まなければならない仏教書籍である。  

 
 

 
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